創刊の辞

 一なる目的 – 意識と呼びうるものが無効に帰したと見做されて久しい。それに支えられ信仰されてき た革命は夢も芥にと潰え去ったのだ、と。
 しかしその夢を斥け現在をなお圧巻するのは、そうして訪れた歴史の終焉後に更新され続けて持続す る、これもまた一なる目的 – 意識ではないのか? むろん、資本の自己増殖がそれであり、ひとはいま その光景を世界資本主義と呼ぶ。これが、いまや無惨におちぶれたかつての目的-意識を嗤う自由な欲望、 ゆるやかに多様性を謳いあげさえもする、大いなる一なる目的 – 意識に貫かれてあることは、だれもが 知っている。
 だとすれば、じつは夢は知らぬ間に成就されていたのだろうか? 一なる目的 – 意識は超克されかつ 貫徹されたのだから、歴史はみごとに終焉している、と?
──ちがう、断じて。
 重要なのは目的 – 意識ではない。
 しばしばたやすく現状追認とも反転可能な先進的であることと不可分離であるほかない、歴史の必然 性において貫かれるはずの目的 – 意識ではなく、反時代的な現実すなわちアクチュアリティを触知する こと、そしてその必要を、ここで使命と呼んでみる。
 われわれは自由を自堕落に享受するのではなく、目的 – 意識に忠誠を誓うのでもなく、この使命のな にかしらの生起、したがってその具現たりえたい。そして、それに寄り添えるものでありたい。
 反時代的──。しかしそれはこの目的 – 意識の支配以前に回帰することではない。隠蔽された豊かな 起源を回復したり復古してみせることでは決してないのだ。
 「還るのではなく辿るもの」の使命について、「帰らずに奪え」、と東北に生まれ不帰郷に至った詩人は 書いた。この使命がそのつど幾許か果たされるなら、その際にはわれわれにおいても、かつ、むしろそ の外に向かってこそ然るべき分離 – 結合が促されるだろう。

 子午線を通過すること、どこに引かれるのかあらかじめ定かではない子午線の上に赴くこともまた、「還らずに辿る」ことであり、ともにそこを通過する者たちをめぐる分離 – 結合の過程にほかならない。Together through meridian. それは終極を目指す旅でもそこから発する旅でもない。
 なぜならそれは、この楕円の軌跡をその南北の極のいずれかに向かって突き進むことではなく、したがって、それを前にしてはだれもが沈黙を強いられる悲壮の物語が始まるのでもないのだから。
 そうではなく、ふたつの極を両端にすえてそのあいだ──熱帯──を横切ること。その交叉に反時代的なアクチュアリティを「見つけ」、しかも「言語」とともにそれを「見つけ」ること。つまり「非物質的な(フィクショナル)」、「けれども現世的な」何かに懸けてみること。
 そうして見出されるとあるひとつの日付をそのつど迎え、そこに迎えられること、それは「帰らずに奪」 うことと別ではなかった。
 それが多数による自由の謳歌でもなく、一なる目的 – 意識に支えられてもいない以上、ひとつの使命は脆い。ある子午線をだれかとともに「見つけ」、通過する、そんな事態が惹起される場であろうとする本誌が、伴わざるを得ない分離 – 結合をはたして促せるのか、そしてそれに堪えうるか否かがこれより 試されていくだろう。

 われわれはここに『子午線 原理・形態・批評』を創刊する。